「広津和郎」先生に「白インゲン豆カレー」はいかが |
お父さまは明治時代の文壇の主流だった「硯友社」の作家広津柳浪。
また広津家は文学の世界では珍しい、柳浪、和郎、桃子という三代にわたった作家ご一族
でもあります。
和郎先生には大正時代の作家の流れでもあった私小説、つまり自分の身辺の様子を描いた
作品が多いですね。
「同時代の作家」や「年月のあしおと」などに、あまり知られていない昭和初期の宇野浩二や
芥川龍之介の事を自伝的文壇回想録として纏めています。
和郎先生は、賭博才能、博才があったようです。
出版事業に手を出したり、これは一山当たらなかったようですが、花札、コリントゲーム
(パチンコに似たゲーム)、鰻の引っかけ等得意だったようです。
鰻については、あまりに入り浸るので、商売人の方で、しまいに先生の顔を見ると
「旦那、ご勘弁なすって。」とネを上げたという事です。
でも何といったって、和郎先生を一番有名にしたのは、戦後最大の冤罪事件といわれる
「松川事件」との関わりではないでしょうか。
「松川事件」とは、昭和24年(1949)8月17日未明、東北線松川-金谷川駅間でレールが
破壊され、上り列車が転覆、乗務員3人が死亡、犯人として国鉄と東芝松川工場の労働
組合員20人が逮捕された事件です。
昭和27年春頃から、38年9月最高裁で、全員無罪が確定する時まで、約14年間、新聞に、
雑誌に、裁判批判を連載していったのでした。
裁判進行中の日常生活は質素を極め、「コーヒー代とタクシー代があればそれでいい。」と、
救援資金を集める為、無報酬で講演、原稿料は被告の人達の薬代として送金、足りないと判ると、所蔵する絵画、陶器類を手放して補っていました。
文豪志賀直哉も「広津君は心根の優しい人だから。」と、裁判の間中、ずっと物心の支援を
惜しみませんでした。
こんな時、奈良駅前で共に闘っていた女流作家佐多稲子とパッタリ遇っているのです。
「松川事件」の終わった翌々昭和40年早々、足かけ6年間務め上げた「松川事件対策
協議会会長」を辞任しました。
時に74才。
一途に燃える和郎先生、奈良に来た最初は、大正2年叔父の画家高木背水に連れられて
1週間滞在。
以後は度々訪れ、奈良国立博物館前の「日吉館」にも宿泊しています。
斑鳩には、昭和16年文芸春秋社の銃後の運動の講演に招待されて来ました。
随筆「夢殿の救世観音」の中で、法隆寺金堂須弥壇上の四隅の四天王像を見て
エキゾチックな印象を抱いたり、夢殿の救世観音の微笑をモナリザと比較したりして、
感動を書いています。
そこでカレーですが、コーヒーのお伴「白インゲン豆カレー」はいかがでしょうか。
「彼は若い頃から、衣食に関して無頓着だった。とりわけ食べ物の細かい味等気にしなかった。」と言われています。
お弁当のおかずは、大概「うずら豆」だったそうです。
今回はうずら豆より少し大ぶりな白インゲン豆のカレー、それをうす焼パン「ピタパン」に
入れて、コーヒーに合うよう考えました。
《材料》白インゲン豆、コンビーフ、市販のピタパン、赤と黄のパプリカ、春菊、
冷凍の自家製カレールー、塩
《作り方》①解凍したカレールー1人分に、100gのコンビーフ缶の半分50gを入れて、味を
馴染ませておきます。
冬のジャガイモはホクホクして、粘りがあるので12人分1度に作っても、1個で
充分ポタッと出来上がります。
解凍してもそれは変わりません。
②白インゲン豆半カップは前の日に、水5倍程入れた中につけておきます。翌日
外皮のしわが無くなれば、つけ汁を捨てます。
圧力鍋に豆と3倍位の水と塩少々入れ5分炊いて、温かい内にカレールーに
入れます。
《盛り付け》半分に切ったピタパンにうっすら焼き目をつけ、中に春菊の葉先、
白インゲン豆カレー、赤黄のパプリカの型で抜いたものを色どりよく入れます。
裁判中、常に忙しかった和郎先生に、薄味のピタパン「白インゲン豆カレー」と好きな
コーヒーで、一服して頂きたかったですねぇ。