佐藤春夫先生に「海の幸じゅ~じゅ~焼きさんまカレー」はいかがでしょう。 |
明治25年(1892)和歌山県東牟婁郡新宮町、現在の新宮市に生まれています。
佐藤家は代々紀州で医者をしており、父豊太郎で4代目、文学に造詣の深い家庭でした。
文学少年として育った春夫先生は6才の時「しらうをや かはのながれは おとたへず」と
詠み、既に天性の片鱗をのぞかせています。後、新宮中学時代に雑誌「明星」に風と題し
た短歌を投稿、石川啄木の目に留まり初登載されました。
「すばる」創刊号にも短歌を発表しています。
明治43年に上京し、評論家生田長江に師事、与謝野寛の「新詩社」に入り、
与謝野晶子から生涯の友となる堀口大学先生を紹介されました。
二人の友情の証しの碑が等彌神社入り口に建っています。
大正6年神奈川県郊外の中里村、現在の横浜市に移住し、小説「病める薔薇」、書き
足して「田園の憂鬱」を完成させて発表、小説家としての位置を固めていきました。
大正10年に第1詩集「殉情詩集」を発表。
詩人としても才能を開花させ、大正時代を代表する存在になりました。
昭和10年に歴史小説「掬水譚 法然上人別伝」。
28年「定本佐藤春夫詩集」で第4回読売文学賞受賞。
30年「晶子曼荼羅」。これでも第6回読売文学賞受賞。
39年「小説永井荷風伝」など。
他評論、童話、戯曲、外国児童文学翻訳、翻案とあらゆる分野に、また芥川賞詮衡委員
として等、活躍は多岐に亘っていました。
昭和23年日本芸術院委員。
35年第20回文化勲章受章。
36年新宮市名誉市民の称号を贈られました。
奈良との関わりは桜井出身の評論家保田與重郎先生との関係になります。
門弟3000人といわれる春夫先生も師と仰ぐ方は與重郎先生なのです。京都太秦の
「身余堂」に足繁く通い、また桜井を案内してもらっています。
又関西に移住していた谷崎潤一郎を訪ね「奈良の晩春」と題した短編も発表しています。
等彌神社に『大和には みささぎ多し 草もみじ』の碑が。
三輪恵比須神社には地元歴史家栢木喜一氏の案内で当地を訪れて詠んだ
『海柘榴市の 野路に飛び交う蟲や何』の碑が建っています。
そこでカレーですが「海の幸じゅ~じゅ~焼きさんまカレー」は如何でしょう。
春夫先生に有名な「秋刀魚の歌」があります。
『あわれ 秋風よ 情(ココロ)あらば伝えてよ………』に始まり、最後の方に
『さんま 苦いか 塩っぱいか…..』とあります。
碑はJR紀伊勝浦駅前に建っています。
秋になればいつも思い出すこのフレーズ、今回焼き秋刀魚を使ってみました。
材料 生さんま、塩、塩糀、自家製カレールー、玉葱、赤ピーマン、サラダ油、トマト、
バター、白ご飯、人参、長いも、ブロッコリー、すだち。
作り方①生さんま2尾は頭、内蔵を取って4等分、一塩して水分が出ればペーパータオル
で拭き、塩糀大スプーン2杯をまぶして1晩置いておきます。
②①のさんまの水気を拭いて熱々のグリルで両面を焼きます。
③フライパンにサラダ油少々入れ玉葱中1/2コと赤ピーマン1コのみじん切りを
炒め、その中に自家製カレールーを加え味を馴染ませます。
④③のカレーに焼いたさんまの身6切れをほぐし入れます。
中骨と内臓部分の骨は除いて置きます。
⑤軽く茹でた薄切りの人参と酢水に漬けた薄切りの長いもは紅葉とうさぎの型で
抜き、ブロッコリーは小さく切って置きます。
⑥フライパンでバター10gと湯むきしたトマト1コのざく切りを炒め、白いご飯お茶碗
2杯を加え、更に炒め塩少々の味を入れます。
⑦仕上げに⑥のトマトライスとカレー、焼きさんま1切れづつ、型抜きした野菜、
輪切りのスダチを置いて、トウモロコシの水煮があれば、それも添えて出来
上がりです。
トマトライスと焼き秋刀魚、カレーは見事にとけあって美味しい仕上がりになりました。