蘆花先生に「美的農家の晩夏カレー」はいかがでしょう |
明治元年(1868)熊本県葦北郡水俣に生まれました。本名は健次郎。
ペンネーム「徳冨蘆花」ですが、「徳冨」の「冨」は「ワカンムリ」で異体字に分類されます。
兄の「蘇峰」は「ウカンムリ」です。漢字の素養のあった蘇峰は『正字(正規の字)を
使った方がよい。』と「ウカンムリ」を、弟は字体上の関係を知らないまま本名の「ワカンムリ」
の「冨」を使っていたとする説があります。
「蘆花」とは自身が地味な「葦の花」が好きだったから命名したとか。
ところが明治38年思想家「堺利彦」がペンネーム「堺枯川」を名のったものの、巷で
ペンネームが流行っていたので、止めると宣言しました。蘆花先生も共鳴して
『小生は堺兄に倣って『蘆花生』の号を廃したり。今後は徳冨健次郎を以ってすべての
場合に御呼び被下度(クダサレタク)候。』と廃号宣言を行いました。
然しすでに定着した「蘆花」の号を忘れさせる事は不可能だった。
明治21年21才で熊本英語学校の教師となり、回覧雑誌「文海思藻」に感想録
「はわき溜」「有礼意」を投稿、この頃より「蘆花」を名乗り始めました。
翌22年上京、兄蘇峰の経営する「民友社」に入り、校正を担当する傍ら翻訳を
始めています。
30年東京氷川町から逗子に転居、自然美に開眼し後に随筆「自然と人生」を刊行。
31年11月小説「不如帰」を「国民新聞」に連載し始め、翌32年5月完結させました。
『あぁぁ 人間はなぜ死ぬのでしょう! 生きたいわ 千年も万年も生きたいわ ! 』の
名セリフで知られ、ベストセラーです。一躍人気作家になりました。
そこで奈良との関わりですが、大正2年刊行の「みみずのたわごと」に「嫩草山の夕」が
あり、奠都1100年祭で賑わう奈良を訪れ
『名を聞いてだに優にやさしい嫩草山は見て美しく思うて懐かしい山である。』と綴って
います。
「初瀬」は大正6年刊行の紀行文「大和路」の中に「神武陵」「多武峰の雨」と共に
「初瀬の夕」として書かれています。
桜井で汽車を下り、直ぐ軽鉄に乗り換えて終点「初瀬」駅で下りています。
「紀の国屋」の店頭に信玄袋を下して、そのまま秋の日の落ちかけた紅葉の
「長谷寺」へ向かっています。
「日は落ちてしまうて、焔の山は紫に暮れ蒼い朦朧の漂う谷に響いて、入相(イリアイ)
の鐘が鳴り始めた。」
「どうしても源氏物語から抜け出して来た白い顔の玉蔓、さし俯く墨染の西行が
上がって来なければならぬ。」と美しい文章が続いています。
当時の「軽鉄」とは「初瀬軽便鉄道」の事で、明治42年~昭和13年まで運行して
いました。現在の国道165号線です。停留所は5カ所、約20分かけて谷間を通って
いたそうですから、今日のバス路線と同じ、ノンビリしていたのでしょうね。
そこでカレーてすが「美的農家の晩夏カレー」はいかがでしょう。
蘆花先生はトルストイ主義の実践者として北多摩郡千歳村粕谷に移住、半農生活に
入り、自ら「美的百姓」と称していました。
「ある日の食卓に取れたての胡瓜、トマト、生野菜、馬鈴薯が沢山入ったカレーライス、
麦ご飯。」とあったのでそのまま頂きました。
材料 ジャガイモ、鶏手羽元、卵、塩糀、キュウリ、トマト、レタス、トウモロコシ、塩、
自家製カレー粉、自家製カレールー、サラダ油。
作り方①前日に卵2個を圧力鍋で茹で、火を消して3分置いて皮を剥きます。
その茹で卵をビニール袋に入れて、塩糀大スプーン1杯を絡ませ、一晩
置きます。
②鶏手羽元4本は前日に塩糀大スプーン2杯を絡ませておきます。
翌日そのまま弱火で全体に焦げ目が付く位まで焼いて後、圧力鍋に入れ、
自家製カレールー1人分と一緒に約3分蒸し煮します。
③ジャガイモ大2個は皮つきのまま、圧力鍋で3分蒸します。
自然にさまして皮を剥き、薄切りし、蝶やウサギ等の型で抜きます。
④フライパンに③の型抜きして残ったジャガイモを小口切りにして入れ、
自家製カレー粉を振りいれ炒めます。その中にカレールー1人分と②の手羽元を
加えて一煮立ちさせます。
⑤キューリ1本、トマト1個は乱切りにし、塩糀小スプーン1杯で和え、レタス1枚は
手でちぎって置きます。
⑥皮を剥いたトーモロコシは塩少々入れた熱湯で約5分間茹で、すぐ薄い塩水に
つけ、3㎝の輪切りにします。
⑦押し麦入りのご飯に④のカレー、③の型抜きしたジャガイモ、①の茹で卵を盛り、
生野菜は別皿にトーモロコシと一緒に盛り出来上がり。
そろそろ露地物の野菜の終わる頃のおしゃれな農家カレーになりました。
塩糀をまぶした茹で卵は得も言われぬ美味しさです。