網野菊先生に「志賀先生の思い出 小豆カレー」はいかがでしょうか。 |
明治33年(1900)東京麻布に生まれました。
6才の時生母と生き別れ、以後3人の継母を迎え、その死を見送っています。
随筆『母』に「私は時としてコールリッヂの海中にただよう『老水夫の詩』の一句を思い出す
のであった。
『水、水、水。水は沢山あるけれど、飲むべき水は一滴もない。』
そして私は
『母、母、母。母は沢山あるけれど、本当に心から甘え懐かしめる母は一人もない。』と
思うのであった。」と書いています。
では薄倖の小説家だったのでしょうか。
ところが菊先生には「終生の師」と仰いだ文豪がいます。「志賀直哉」です。
随筆集『雪晴れ』の中に最初の出会いが記されています。
大正12年9月、ロシア文学翻訳者湯浅芳子と福島県の温泉に旅行中、関東大震災を知り
東京に向かうが、婦女子の入京禁止で、東京に入れず一先ず湯浅の故郷京都へ向かいます。
その時京都の粟田口に住んでおられた志賀先生を「一期の思い出」にと訪ねたのでした。
実際120枚あった小説『光子』の原稿を見て欲しいと置いていきます。これは1年程して
『中央公論』に載りました。志賀先生の推薦だったのですね。
『光子』は継母の死を子として看取る物語です。
3年後の大正15年秋、菊先生は志賀先生の住む奈良の幸町へ、続いて破石町、
氷室神社近くと昭和3年5月まで奈良で過ごしました。
『奈良での2年間は私にとって色々の意味での留学時代と云っていいようだ』と
随筆『嫩草山の山焼き』に書いています。
(左菊先生、右へ志賀先生とお子様3人、右端は志賀先生のお妹)
そして志賀先生をいかに敬愛していたかは文中の「お背の高い」「お目を見たら」
「お作品」と総てに「お」が付けられている箇所に見る事ができます。
東大寺境内について書かれた随筆に『冬の花』があります。
コートを着る程でない肌寒い日、日頃は絶対拝観出来ぬ像(俊乗上人像)を特別に
見せて頂けるからと、志賀先生のお伴で東大寺門前の集合場所へ行くが誰もいない。
先生が『戒壇院へ行ったのかな。』と。そこもひっそりしている。それで正倉院の前の道を
二月堂へ。続いて反対側の俊乗堂の前へ行っても知人の姿は無かった。
先生は『どうも次ぎ次ぎと、立ち去った後へ後へ回っているようだな。帰りましょう。』と。
私達は春日道を通り抜けて帰った。
この文から東大寺南大門を西に下り、続いて東の丘陵を緩っくり登って行かれる様子が
目に見えるようですね。
昭和23年48才「金の棺」で鎌倉文庫第2回女流文学賞受賞。
37年「さくらの花」で文部省芸術選奨及び中央公論社第1回女流文学賞受賞。
43年「一期一会」で読売文学賞、日本芸術院賞受賞
44年秋69才、芸術院会員となりました。
そこでカレーですが、「志賀先生の思い出 小豆カレー」は如何でしょう。
随筆『小豆』に志賀先生は甘いものがお好きなので知人から貰った小豆を1粒も自分では
使わず持参した処、先生は『小豆も少しばかりのを汁粉にするとか何とか言っても面倒
くさいな。若山君の畑にでも蒔いて了おうよ。』と言われた下りがあります。
「志賀先生はけちくさい事、いやしい事、卑屈なことが大嫌いでいらっしゃる。」と続きます。
ではと、少ない小豆を今回カレーに入れてみました。
材料 小豆、豚ミンチ、生姜、酒、C&Bカレー粉、自家製カレールー、玉葱、オリーブ油、
さつま芋、小松菜、エリンギ、塩。
作り方 ①小豆100gは5倍の水で一度茹でこぼします。
圧力鍋に小豆とひたひたの水、塩一つまみ入れ、約7分茹でます。
②豚ミンチ200gは少量の酒、生姜のみじん切りと一緒に空炒りします。
半分だけ使うので、残りは冷凍して別の料理に使います。
③フライパンにオリーブ油を少量入れ、玉葱中1/4のみじん切りを炒め透き通れば
塩一つまみ、カレー粉小スプーン1杯で味を入れ②の豚ミンチと自家製カレールー
1人分を加えて一煮立ちさせます。
あと水気を切った①の茹で小豆半分を入れます。
④別のフライパンにオリーブ油大スプーン1杯入れ、さつま芋の薄切りを焼き、
続いて小松菜1株の3㎝切り、エリンギ中3本の4つに裂いたものを一緒に
ソテーし、塩少々振っておきます。
⑤白いご飯に野菜ソテー、小豆カレーをいれて出来上がり。
ソテーした野菜、小豆カレーは出会い物です。美味しいです。
カレー粉は志賀先生の時代イギリスのC&Bカレー粉が高級品として知られ、
柳兼子さんの「白樺カレー」にも使われていたのでここでも使ってみました。