十三郎先生に「思い出のジャガイモサラタ ゙クミン風味」はいかが。 |
明治36年(1903)大阪市浪速区新川町難波新地で生まれました。
本名は「藤」のつく「藤三郎」。
生家は寺町筋の老舗花屋、父親はこれを人に譲り銀行を創立しました。
大阪でいう「ええしのぼんぼん」だったのですね。
中学生の頃から詩作を始め、卒業後、大正9年に上京。
そして大学在学中に、アナーキズムに関する著作を読み、影響を受けます。
昭和14年、大阪周辺の重工業地帯の風景を題材に、詩集「大阪」を発表。セメント、
マグネシウム、重油タンク、硫安、ソーダなどが詩の言葉として出てきます。
後にこの作品で「大阪市民文化賞」を受賞。
昭和27年から近鉄「学園前」の帝塚山学院短期大学で教鞭をとっていました。
一度も休講されたことがなかったと聞いています。
当時はただ松林、起伏の多い丘陵地帯で、付近に人家は殆どなく、山の中に学校だけが
あるという所でした。
今の近代化された町は想像できなかったでしょうね。
昭和50年詩集「拒絶の木」で読売文学賞を受賞します。
ところで奈良「大和」とのかかわりですが、2歳の時、姉と共に大和郡山の親戚に
預けられ、小学5年生までを過ごしています。
当時を思い出して詠んだ詩「ぼうせきの菊」
『大和桃源に10年程いた。はじめの頃は憶えていない。
ただ俺が生まれるずっと前から 赤煉瓦の古い紡績工場があすこにあった。
毎年今頃になると 構内に豪華な花壇が組まれて 菊見で賑わった。…..』と続きます。
この紡績工場とは、JR郡山駅前にあった「大日本紡績郡山工場」の事です。
今、その跡地は団地になって、石碑が静かに眠っています。
そして、もう一篇「ぼうせきの煙突」
『たそがれの国原に ただ1本の煙突がそびえている。
大和郡山の紡績工場の煙突である。
ぼうせき、それは今死んだような名だが 私は忘れる事はできない。
明治も終りの夏の夜である。七十六年の周期を持つハリー彗星の渦が
涼しくあの紡績の鋸歯状屋根の 群青の空に光っていたのを』
これは詩碑になって、郡山城内にある市民会館の南側に建っています。
ところで今日の天体ショウ「金環日食」は素晴らしかったですね。
朝7時頃から、今か今かとその時を待ちました。
静かに右上から欠けていき、7時30分前後に金環になりました。
うす雲がかかった時は「太陽グラス」を使わず、そのまま肉眼で確認出来ましたよ。
これっていけなかったでしょうか。
関西では282年ぶりの観測だとか(@_@;)。
そこでカレーですが「思い出のじゃがいもサラダ クミン風味」は如何でしょう。
十三郎先生は『初めて訪ねて行った東京武蔵野の詩人尾崎喜八の家で、大皿一杯に
盛られた掘りたての新じゃがのサラダ。こんなうまいものを私はその後も食べたことが
ない。35年後になっても思い出す。』と「家郷の観念」に書いています。
これをヒントに戴きました。
材料 新じゃがいも、新たまねぎ、乾燥唐辛子、クミンシード、レモン、塩、サラダ油、
キヌサヤエンドウ、レタス。
作り方 ①じゃがいも5ヶは圧力鍋で皮ごと7分蒸します。
熱い内に皮をむき、4ヶはマッシュ、1ヶは小さく切ります。
②玉葱1ヶはみじん切りにして軽く塩を振り、水気を絞っておきます。
③唐辛子2本は辛みの元になる種とワタを取り、弱火のフライパンで黒くなるまで
空炒りします。
④ボールに①のじゃがいも、②の玉葱、指でもんだ③の唐辛子、
レモン1/2ヶのしぼり汁、塩小さじ1/2杯を入れます。
⑤フライパンにサラダ油大さじ2杯、クミンシード小さじ2杯を入れ、弱火にして
パチパチと弾いてきたら④のじゃがいもにかけ、全体を混ぜます。
レタスを敷き、色どりにゆでたキヌサヤをのせれば出来上がり。
今回はインド風サラダにしてみました。唐辛子は香りを出すための空炒りです。
食べた時に、じゃがいも、玉葱、唐辛子の味が別々に感じられるようにするのがコツですね。