大和郡山市材木町の「薬園寺」について |
奈良時代、聖武天皇の御代「平城京」の南にあった「薬園」、この園の中に僧行基が
薬師様を御祀りするために「薬師堂」を開山されたのが始まりとされています。
時代は下って江戸時代、宝永4年に地震が発生、本堂が倒壊。
後高野山より来られた僧了盤によって再建されました。
お堂の中は見事な厨子「宮殿(クウデン)」で荘厳されています。
厨子の中の薬師さまは檜の一木造り、大きさは人間と同じ。平安時代作。
満願寺山の「満願寺」より安置。聖徳太子ゆかりの像だとか(奥書による)。
脇侍の日光菩薩、月光菩薩は室町時代作。後ろから失礼しています。後ろ入りです。
厨子の外をかためる12神将は鎌倉時代作。
これらの像は京都の「法務宮」仁和寺門跡の指示を得て移動されたとか。
また最近郡山市の援助を得て傾いたお堂を修復されました。
その時お嬢様、お嬢様の御友達も手伝って12神将を筆や刷毛で丁寧にすすや
埃を取り除かれています。結果、像の色彩がみごとに蘇りました。
江戸時代末は柳澤家の「祈願寺」。
明治の神仏分離は大きな失策ですね。
古い資料は殆ど処分され、証拠が残っていないのです。証明されません。
隣りの「薬園八幡神社」とも分離、赤い塀で分断されています。
お庭に「しきみ」の花が。青蓮華とも呼ぶそうです。
はな、葉、実、根まですべて有毒。ただ葉を折ると一瞬良い香りがするそうです。
「八角」に似た実が弾けてところかまわず飛ぶ、どうりでわが故郷の荒れた山のあちこちに
この「しきみ」の木がいっぱいはえているんです。
鹿やいのししが食べないわけですね。
本堂の蛙股の中に干支の三番叟の猿や中国の故事が掘りこまれていました。
北野住職は「東日本大震災」の被災地支援隊「二實」を立ち上げられました。
昨年は「郡山城ホール」で現地報告、物産展を企画されたのでした。
ますますのご活躍をお祈りしています。