高見順先生に「秋の山粧ふカレースープ」はいかがでしょう。 |
明治40年(1907)福井県三国町に生まれました。
本名は高間芳雄。
ペンネーム「高見順」とは、東京大学の同人誌「大学左派」を創刊するに当たり友人
新田潤と「新しい気持で出発しよう。」とペンネームを考え、名はお互い「じゅん」に統一。
本名高間の「間」は「まみむめも」の「ま」の次が「み」なので「高見」とし「じゅん」は「順序」の
「順」にしたと云う事です。
折しも今、東京駒場の「日本近代文学館」で「激動の昭和を生きる高見順という時代」展が
11月28日まで開催されています。没後50年となるのですね。
写真や生原稿、有名な日記なども展示されているようです。
さて明治41年祖母、母と共に上京、麻布に住むことになりました。
中学時代から白樺派の作家に親しみ、東京大学文学部に入学すると、壷井繁治らと
「左翼芸術同盟」を結成。機関誌「左翼芸術」へ「秋から秋迄」を発表しています。
この結社はのちに「日本プロレタリア同盟」と合流します。
昭和10年雑誌「日暦」に「故旧忘れ得べき」を発表。
この作品は第1回芥川賞の候補となり、文壇で注目され、作家としての地位を確立して
いきます。
この時の選考委員だった川端康成の評価は「最も面白く読んだ。或いは石川達三の
『蒼氓』より高く買われ得べきであろう。今日のインテリゲンチャ世態小説としても、
重要な地位を与えられるべきものだ。」と高いものでした。その後、川端先生と親交を
深め、戦後は貸本屋からスタートした出版社「鎌倉文庫」を一緒に経営するようになります。
文壇に登場してからは「描写のうしろに寝てゐられない」「如何なる星の下に」
などを発表。題名は少し長いですね。
昭和16年インドネシアを旅行。年末には徴用令により、陸軍報道班員としてビルマ、
中国へ派遣されます。
昭和33年「わが胸の底のここには」「昭和文学盛衰史」「激流」、詩集「死の淵より」
を出版。また芥川賞選考委員になります。
毎日出版文化賞、新潮社文学賞、野間文学賞、菊池寛賞を受賞。文化功労者も追贈。
伊藤整、小田切進らと「日本近代文学館」設立に尽力しました。
そんな高見先生の奈良薬師寺との関わりですが、短編小説「甘い土」があります。
主人公文芸評論家佐伯が奈良駅に降り立ち、友人の英文学者小泉と落ち合い、
薬師寺の東塔落慶法要と東大寺の大仏開眼1200年慶讃法要、両方を拝観する話です。
薬師寺金堂の法要の様子、内陣の檀に米、麦、粟、きび、豆の五穀と茄子、栗、柿など
いわゆる「百味の御食」を紹介しています。
勿論「甘い土」の由来もです。
佐伯は高見先生、その人ですね。
随筆「唐招提寺」にも「私は薬師寺の聖観音の前にほとんどひれ伏していた。それは私に
とって美しい彫像といふより、私の苦しみに慈眼をそそいでくれるみ仏であった。」と
記しています。
奈良に毎年の様に来ては寺を巡っていました。
そこでカレーですが「秋の山粧ふカレースープ」はいかがでしょう。
高見先生が千葉大病院に入院している時に「見舞いに何がいいか。」と聞かれ、
「滋養によいスッポンスープが良い。」と。その後の見舞いには度々スッポンスープが
届けられるようになったと云う事です。
今回スッポンには及びませんが、スッポンの唐揚げは鶏のささみに似た味がする
と云う事なので、カレースープの中にささみの唐揚げを入れて見ました。
材料 塩糀まぶしの鶏手羽元とささみ、片栗粉、サラダ油、玉葱、オリーブ油、塩、
コショー、マッシュルーム、自家製カレールー、昆布水、万願寺唐辛子、黄パプリカ、
紫玉葱、マイクロトマト。
作り方 ①手羽元4本とささみに前日塩糀大スプーン2杯づつ絡ませておきます。
翌日オリーブ油少々入れたフライパンで先ず玉葱中1/2コの細切りを炒め、
続いて手羽元を入れて炒め焼きします。
②圧力鍋に①と自家製カレールー2人分、昆布水2カップを入れて7分煮ます。
あと塩、コショウで味を入れます。
③ささみ2枚は筋を取って1口大に切り、片栗粉を薄くまぶしてサラダ油でカラッと
揚げます。
④マッシュルーム7個は薄切りしてオリーブ油で焼き色を付けます。
万願寺唐辛子は中の種を出して小口切り、黄パプリカ、紫玉葱は5㎜角に
切って置きます。
⑤浅い鉢にカレースープ、一人1本の手羽元、ささみの唐揚げ、野菜を彩りよく
盛って出来上がりです。
マイクロトマトを運よくスーパーで見つけたので盛って見ました。トマトの味が凝縮されて
いて、大きさは5㎜位、本当にマイクロでおしゃれなのです。