山頭火先生に「別れませんよと大根カレー」はいかがでしょう。 |
2月は自由律俳人「種田山頭火」先生を紹介します。

「行乞の俳人」と呼ばれ「分け入っても分け入っても青い山」の句は
学校の教科書にも採用されてよく知られています。
「自由律俳句」とは五七五の定型や季語にとらわれずに詠んだ句を
いいます。
明治15年(1882)山口県防府市に生まれました。
本名は種田正一。
俳号は始め田螺公(デンラコウ)、後に山頭火。
これは納音からとった名で、納音とは運命判断の一種、
60通りの干支に5行を配し、30種の名称を人の生涯にあてはめ、
運命判断する方法です。
師の荻原井泉水も納音により命名しているので、それに倣っています。
ただ山頭火の場合、生年とは無関係で「いい感じの名」という事で
採用したそうです。
明治29年14才、私立周陽学舎、現在の山口県立防府高等学校に入学。
学友らと文芸同人誌を発行、地元の句会によく顔を出していたと
いう話があります。
明治34年19才、東京専門学校、後の早稲田大学予備科に入学。
明治37年退学し帰郷。
明治44年29才、防府の郷土文芸誌「青年」に定型俳句を出句。
他、外国文学の翻訳等も発表。
大正2年32才、荻原井泉水主宰の「層雲」に出句。そして師事し、
以後頭角を現し、俳句選者の一人となりました。
大正14年44才、出家得度し法名「耕畝」熊本県植木町の
味取観音堂の堂守となります。
大正15年45才、雲水姿で行乞流転の旅に出、九州、西日本、中部、
東北地方を巡っています。
「うしろすがたのしぐれてゆくか」
「どうしょうもない私が歩いている」
「酔うてこほろぎと寝ていたよ」は有名。
俳友の支援や満州にいたご子息健氏から郵便局留めで送られて
くる当時の20円も生活の糧にしていました。
旅日記の前半は自ら焼いてしまって無く、後半は福岡に住む生涯の
親友木村緑平氏の元に送っており、それが後の全集となっています。
第1句集は「鉢の子」、続いて「草木塔」と第7句集「鴉(カラス)」まで
刊行しています。

奈良との関わりは昭和14年5月11日の旅日記に
畝傍御陵、橿原神宮を巡って
「一人もよろしい大和国原そこはかとなく」他9句、
翌12日は奈良公園を雨の中を散歩
「塔は五重いういうとして鹿」他2句を残しています。
こんな山頭火先生に「別れませんよと大根カレー」は如何でしょうか。

先生には食べ物を詠んだ句が結構あります。
50才の頃、山口県小郡町で庵を結び、自炊生活、土地の一部を開墾して
今でいう家庭菜園に凝っていました。「其中庵」といいます。
庵は他に松山の「一草庵」があります。
食べ物の美味しい句の一部を紹介しますと、
自分の畑の大根を抜いて来て「霜の大根ぬいてきてお汁ができた」
カレーは「これが別れのライスカレーです」
別れとはちょっとただ事ではありませんね。
ご飯は「雪ふるゆうべのゆたかな麦飯の湯気」
肉は「春めいた風で牛肉豚肉馬肉鶏肉」
手土産貰って「生きてしずかな寒鮒もろた」など。
こんなに美味しそうなので、カレーにしないではおられません。
全部使ってみます。
材料 大根、塩麴漬けの厚切り豚肉、小麦粉、玉葱、サラダ油、
塩コショー、自家製カレー粉、自家製カレールー、ほうれん草、
トマト、彩りミニトマト、カイワレ大根、昆布水、ブロッコリー、
鮒の佃煮、白菜の浅漬け。

作り方 ①大根5㎝(300g位)はいちょう切りにして、塩少々で下茹でし
ザルに上げておきます。

②フライパンにサラダ油少々入れて玉葱中1/2ケのみじん切りを
焼き色が付く迄炒め、自家製カレー粉小スプーン1杯、塩コショーを
振り入れ混ぜます。
これを一旦別皿に移します。

③②のフライパンにサラダ油少々足して、塩麴漬けの
厚切り豚肉150gを一口大に切り、小麦粉をまぶして、
両面焼きます。

この中に②の焦げ目をつけた玉葱、ほうれん草2株を2㎝に
切ったもの、自家製カレールー2人分、昆布水1Cを入れ
5分ほど煮ます。

続いて①の大根、トマト小2個のくし切りを加え2分位煮込みます。
ここで味が薄ければ塩コショーで味を足します。

④盛り付けはお皿に麦ご飯を盛り、回りに③の大根カレーをしいて、
ミニトマトの輪切り、茹でブロッコリー、カイワレ大根を飾って
出来上がりです。

鮒の佃煮と白菜の浅漬けは横に添えます。

随筆集『扉の言葉』に「私は長いあいだ漬物の味を知らなかった。ようやく
近頃になって漬物はうまいなあとしみじみ味うている。(中略)
私は断言しよう。まずい漬物を食べさせる彼女は必ずよくない細君だ!」と迄
言っています。

カレーに添えるのは白菜の浅漬けがいいですね。
また大根をカレーに入れるとトマトのさっぱり味と相まって得も言われぬ
新しい味の発見があります。
一度お試し下さい。